UNTITLED(無題)な人生(VITA)を

人生に夢っていうのはあった方がいいんだろうか?

目標っていうのはあった方がいいんだろうか?

生き甲斐ってのはあった方がいいんだろうか?

そりゃあ、無いよりかはあった方がいいに決まってるだろう、とは思う。夢があった方が情熱的に生きられる。目標があった方が日々努力できる。生き甲斐があった方が毎日に張りが生まれる。そういうものがあるなら、それに越したことはない。

けど、なんかちょっと息苦しいんだよね、そういうの。

大きな夢を追いかけよう、高い目標を持とう、充実した生き甲斐を見つけよう、恐らく誰もが子供の頃からそんなことを言われてきた。さもそれが正義であると言わんばかりに少年も少女も大志を抱くことの素晴らしさを説かれ、気づけば夢の叶え方だの、目標達成の方法だの、自分らしく生きる術だの、そんな耳障りの良い言葉に手足を搦め取られている。

朝起きて、青空を仰ぎ、ほどよく働いて、腹八分の飯を食い、熱い風呂に浸かり、煙草を一吸いして、夜はぐっすりと寝る。

ただそれで充分なはずなのに、世の中にはそれだけじゃ何かが足りないような強迫観念に迫られて、身の丈に合わない大仰な夢だの目標だのを掲げないと不安な人がどうやら一定数いるらしい。生きている間に何事かを成し、死んだあとで多くの人に偲ばれて、「立派な人生」などとまるで映画のようなタイトルが付く人生を送りたいと願う大根役者たちだ。

そういう生き方、、、無理をしてでも人生に夢だとか目標だとか生き甲斐なんてものを追い求めるような生き方に、露ほどの価値も感じなくなったのは、たしか35歳を越えた頃からだったと記憶している。

なにか劇的な出来事があった訳ではない。ただ自分の思考がそういうところに落ち着いてきただけだ。

もちろん夢がある人はそれでいい。一生懸命に手を伸ばして掴めばいいし、目標があるなら越えればいい。「立派な人生」を送れるならそちらのほうがよほど素晴らしいのだろう。

だけど、どれだけ素晴らしかったとしても、やっぱりそういう人生を送ってみたいとはこれっぽっちも思えない。

カメラをぶら下げて目的も目標もなくブラブラ歩きたい。一日歩いて結局何も撮れずに肩を落としたい。偶然撮れたラッキーショットに年甲斐もなくはしゃぎたい。足元に咲いている花が綺麗ならいつまでも足を止めて見ていたい。頭の上を流れる雲が雄大なら時間を忘れて棒立ちのまま眺めていたい。

そうやって、立派な人がついぞ視線を向けなかったものに目を向けたい。

立派な人がついぞ歩かなかった路地裏に勇気を出して足を踏み入れたい。

立派な人がついぞ声を掛けなかった人たちと夜を通して語り明かしたい。

「立派な人生」を目指してひたすらまっすぐ一直線に生きるよりも、右に左に逸れながらその道の先々にあるものに良い影響を受けていきたいのだ。

僕の人生(VITA)はUNTITLED(無題)でいい。

シェアする